「デザインからパワーを貰う」そんな体験を日常的な感覚として、僕たちは知っていると思う。
たとえば、バイクの形は、長い間に不要な部分はカットし、必要な部分を足して行き着いた、機能としてのデザインでもあるのだろうけれど、それだけとは思えない。
時に見るものを昂揚させ、恍惚とさせるほどのサムシング、速さに特徴づけられるパワーを、そこに感じる。
スポーツカーにまで話題を広げれば、その傾向は顕著に現れる。
機能として、ある条件下の速さやパワーを究極的に追求するなら、デザインはF1カーのようにどれも似通った形となり、専門家でもなければスポンサーロゴでしか、見分けの付かないものとなる。
スポーツカーには、熾烈な競争で勝つための速さではなく、一般的な車より速いのは勿論だがそれ以上に、見る者乗る者がパワーとして感じられる表現としての速さが求めれられる。
以前、縄文のデザインを目にした時、そのパワフルさに圧倒された。
過剰に曲線的で、生命力の根源に結び付くような、エロティックな形、それは女性の身体というよりも、何かのパワーの表現であるように感じた(ex岡本太郎)。
あるいは、祈りのようにも。
「縄文的」な要素は、今もきっと様々に残っていて、
我々の暮らしを豊かに彩っている。弥生以降のあらゆる時代とは比べものにならないぐらい、日本人は縄文期を長く経験しているのだ。農耕に伴う貯蓄と貧富の差が生まれた弥生以降とは、豊かさの概念も異なっていたかもしれない。
意味や機能を考えたら、不必要と削ぎ落とされてしまうもの、でも理にかなった必要だけでは、あるいは物質的豊かさだけでも、きっと人は本当に豊かには生きてゆけない(ケルアックを含めビートニクの師匠たちは、先の大戦後ビートルズ前夜に、繰り返しそのことを言っていたんだよな)。
時に、意味不明なぐらい過剰なもの、ナンジャコリャっていうぐらい奇妙なもの、ブスカワとか言われたりもする境界すれすれのものが、力を与えてくれたりする(その辺、「着る人が主役」という我々のコンセプトとも重なる)。
力は、神秘主義的な物言いになるけれど、どこからか、やって来る。
祈るしかない。
そんな風に思いながら、この服の企画を進めた。
何らかのパワーを感じてもらえたら嬉しい。
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